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斎藤龍興は本当に暗愚だった?信長に敗れた理由と流浪の最期を解説

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戦国時代の美濃(岐阜県)を治めた大名、斎藤龍興(さいとう たつおき)。 彼の名前を聞いて、どんなイメージを持ちますか?

「織田信長に国を奪われたダメな二代目」 「天才軍師・竹中半兵衛に城を乗っ取られた情けない殿様」

おそらく、あまり良いイメージはないかもしれません。 彼は、下剋上で国を盗った偉大なる祖父・斎藤道三(どうさん)や、その父を倒して実権を握った猛将の父・義龍(よしたつ)に比べると、「暗愚(あんぐ=愚か)」な武将として描かれがちです。歴史ドラマでも、酒に溺れたり、家臣のいうことを聞かないわがままな若殿として登場することがほとんどです。

しかし、本当に彼はただの無能な凡人だったのでしょうか? もし本当に無能なら、国を追われた後すぐに歴史から消えているはずです。しかし龍興は違いました。 国を失った後も、彼は決して諦めずに信長と戦い続け、信長を何度も苦しめました。そこには、執念深い「復讐者」としての、知られざる顔があったのです。

この記事では、敗者として歴史の影に埋もれた斎藤龍興の生涯と、国を失った後の10年にも及ぶ壮絶な戦いについて、高校生にも分かりやすく、深く掘り下げて解説します。

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目次

斎藤龍興とは?偉大な祖父と父を持つ若き当主

斎藤龍興は1548年、美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三の孫として生まれました。 父は、道三を「長良川の戦い」で討ち取り、美濃を支配した斎藤義龍です。龍興は、この「マムシの血」を引くサラブレッドとして育ちました。

14歳での家督相続と家臣団の分裂

1561年、父・義龍が急死し、龍興はわずか14歳(数え年)で家督を継ぐことになりました。 これが悲劇の始まりでした。 戦国時代の14歳といえば元服する年齢ですが、一国を治めるにはあまりに若すぎました。 美濃の家臣団は、「西美濃三人衆(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)」をはじめとする歴戦の猛者ばかり。彼らは「若僧に俺たちの主君が務まるのか?」と懐疑的でした。

さらに悪いことに、隣国の尾張には、「美濃をよこせ」と虎視眈々と狙っている魔王・織田信長がいました。 若き龍興は、巨大なプレッシャーの中で、評判の悪い側近(斎藤飛騨守など)ばかりを重用し、耳の痛いことを言う古参の家臣を遠ざけてしまったと言われています。 これにより、一枚岩だったはずの斎藤家臣団の結束に亀裂が入り、心が徐々に離れていってしまいました。

竹中半兵衛による「稲葉山城乗っ取り事件」

龍興の評価を決定的に下げ、天下にその弱さを露呈させてしまったのが、1564年に起きた前代未聞の事件です。 天才軍師・竹中半兵衛(たけなか はんべえ)による「稲葉山城乗っ取り」です。

半兵衛は、龍興が政務を怠り酒色にふけっていることを諌(いさ)めるため、弟の病気見舞いと称して城に入り込みました。 そして、隠していた武器を取り出し、わずか16〜17人の手勢だけで、城内の兵を恐れさせ、難攻不落の稲葉山城(のちの岐阜城)を占拠してしまったのです。

当時の龍興は、寝耳に水の大事件にパニックになり、着の身着のままで城から逃げ出しました。 「たった十数人に城を奪われた大名」 この噂は瞬く間に広がり、龍興は世間の笑い者になってしまいました。 半年後、半兵衛によって城は返還されましたが、一度失墜した権威は戻りません。この事件で「斎藤家にはもう未来がない」と多くの家臣が見限り、織田信長の方へ寝返る決定的なきっかけとなりました。

斎藤龍興×織田信長との戦いに敗れ美濃からの追放

家臣の心が離れていく中、信長の攻撃は激しさを増していきます。信長は美濃攻略のために本拠地を小牧山城に移し、着々と包囲網を狭めてきました。

稲葉山城の戦いと敗北

1567年、ついに信長は美濃への総攻撃を仕掛けました。 龍興にとって致命的だったのは、頼みの綱だった「西美濃三人衆」がこぞって信長に内通し、寝返ったことでした。 主力部隊を失った龍興は孤立無援となります。

信長軍は稲葉山城を包囲し、猛攻を加えました。龍興も必死に防戦しましたが、多勢に無勢。ついに稲葉山城は落城しました。 龍興は長良川を船で下り、伊勢(三重県)の長島へと逃亡しました。 これにより、三代続いた戦国大名としての斎藤家は滅亡し、美濃は信長のものとなり、城の名前も「岐阜城」と改められました。

流浪の復讐者・斎藤龍興の後半生

ここからが、あまり教科書には載っていない龍興の「第二の人生」です。 普通の武将なら、ここで切腹するか、あるいは出家して隠居するところです。 しかし、龍興は違いました。彼はただ逃げ隠れていたわけではありません。 「信長を倒す。奪われた美濃を取り戻す」 その執念だけで、彼は各地を転々としながら、反信長勢力と手を組み、ゲリラ的に戦い続けました。彼は「信長包囲網」の影のキーマンとなったのです。

長島一向一揆や本願寺と共に戦う

美濃を追われた龍興は、まず伊勢の長島に逃げ込みました。ここは長島一向一揆の拠点で、信長と激しく対立していました。 龍興は一揆勢と協力し、信長軍を大いに苦しめました。特に1570年の戦いでは、信長の弟・信興を自害に追い込み、氏家卜全(かつての裏切り者)を討ち取るなど、信長軍に痛烈な打撃を与えています。

さらに、畿内(大阪周辺)へ移動し、三好三人衆と結託。野田城・福島城の戦いでは、石山本願寺の雑賀衆(さいかしゅう)と共に信長軍と激突しました。 この時、かつて自分を城から追い出した竹中半兵衛や、木下藤吉郎(秀吉)とも戦場で再会し、刃を交えたかもしれません。 彼は、かつての家臣たちに手紙を書き、「今こそ立ち上がれ、信長を挟み撃ちにするぞ」と呼びかけるなど、粘り強く再起を狙って活動していたようです。

越前・朝倉義景を頼り、最期の戦いへ

最終的に、龍興は越前(福井県)の有力大名・**朝倉義景(あさくら よしかげ)**を頼りました。朝倉氏は信長包囲網の主力であり、龍興にとっては最後の希望でした。 1573年、信長が浅井・朝倉氏を攻めた際、龍興も朝倉軍の「客将(きゃくしょう)」として出陣しました。

これが彼の最期の戦いとなります。 「刀根坂(とねざか)の戦い」。 朝倉軍が敗走する中、龍興は本陣を守るために踏みとどまって戦いました。 皮肉なことに、彼に襲いかかったのは、かつて自分の家臣だった美濃の武将たち(氏家直昌ら)でした。 「裏切り者どもめ!」 龍興は奮戦しましたが、多勢に無勢。壮絶な討ち死にを遂げました。享年26歳。

「おのれ信長! わが魂は死なず!」 最期の瞬間まで、信長への対抗心を燃やし続け、武人として散った生涯でした。

まとめ:斎藤龍興は決して無能ではなかった

いかがでしたでしょうか。 斎藤龍興の生涯をまとめます。

  1. 若き当主の苦悩: 偉大な父の急死により10代で跡を継ぎ、百戦錬磨の信長と戦うことになった悲運のプリンス。
  2. 失敗と挫折: 家臣との不和や竹中半兵衛の城乗っ取り事件により、威信を失い国を追われた。
  3. 執念の抵抗: 美濃を失った後も諦めず、10年近くにわたって各地を転戦し、信長と戦い続けた不屈の闘士。

彼は政治家としては未熟で、人をまとめるカリスマには欠けていたかもしれません。 しかし、全てを失ってもなお強大な敵に立ち向かい続けた精神力と行動力は、決して「暗愚」の一言で片付けられるものではありません。 信長にとって、領地を持たないのにしつこく牙を剥いてくる龍興は、ある意味で最も厄介な「ストーカー的な敵」だったとも言えるでしょう。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、秀吉や半兵衛の引き立て役としてだけでなく、国を奪われた者の悲哀と、最後まで抗い続けた男の意地を見せるライバルとして、魅力的に描かれることに期待しましょう。

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