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佐久間信盛とは?信長に追放された筆頭家老の悲劇と19ヶ条の折檻状

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戦国時代の織田家といえば、木下藤吉郎(秀吉)や明智光秀のような実力主義の出世ストーリーが有名ですよね。

しかし、その一方で「ずっと織田家を支えてきたのに、織田信長から突然クビを宣告された」悲劇の重役がいました。 それが、織田家の筆頭家老・佐久間信盛(さくま のぶもり)です。

「退き佐久間(のきさくま)」と呼ばれた戦のプロでありながら、晩年に信長から「19ヶ条の折檻状(せっかんじょう)」という長文のダメ出し手紙を送りつけられ、高野山へ追放されてしまった彼。 なぜ、長年の功労者がこれほど無慈悲な扱いを受けたのでしょうか?

この記事では、佐久間信盛とはどんな人物だったのか、そしてなぜ功労者でありながら歴史の表舞台から消されたのか、その生涯と衝撃の追放劇について、分かりやすく解説します。

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目次

佐久間信盛とはどんな武将?織田家No.1の家老

佐久間信盛は、信長の父・信秀の代から織田家に仕える古参中の古参です。 若い頃の信長は「うつけ者」と呼ばれ、家臣たちからも軽んじられていました。多くの家臣が、品行方正な弟・織田信行(信勝)を支持し、あの柴田勝家や林秀貞でさえも信長に反旗を翻したほどです。

しかし、信盛は違いました。彼は早くから信長の器量を見抜き、一貫して信長を支持し続けました。 弟・信行との家督争いである「稲生の戦い」でも、信盛は信長軍の主力として戦い、勝利に貢献しています。 つまり、信長にとって信盛は、もっとも苦しい時期を支えてくれた「最古参の忠臣」であり、誰よりも信頼できるパートナーだったのです。

「退き佐久間」の異名と実力

彼は戦場での指揮能力が高く、特に**撤退戦(てったいせん)**が得意でした。 戦国時代において、攻め込む時よりも難しいのが「負け戦」や「撤退」の指揮です。敵の追撃を受けながら、パニックになる味方を統率し、被害を最小限に抑えて逃げる「殿(しんがり)」は、冷静な判断力と度胸がなければ務まりません。

信盛はこれを巧みにこなし、何度も味方のピンチを救いました。 その手腕は「退き佐久間(のきさくま)」と称えられ、攻撃が得意な「掛かれ柴田(柴田勝家)」、内政が得意な「米五郎左(丹羽長秀)」と並び、織田家を支える三本の柱として勇名を馳せました。決して臆病なわけではなく、難しい局面を任せられる「守りの要」だったのです。

秀吉や勝家よりも偉かった?

織田家臣団の中で、信盛の地位は名実ともにトップクラスでした。 席次(序列)においては、あの柴田勝家よりも上座に座ることを許されており、織田家のNo.1家老として君臨していました。

さらに、彼の権限は強大でした。 信長が天下布武を進める中で、信盛は近畿地方(畿内)の大名をまとめる**「方面軍司令官」**のような役割を任されていました。 近江、山城、大和、河内、和泉、紀伊、三河――最大で7カ国もの与力(部下となる大名)を束ねており、明智光秀や松永久秀といった有力者でさえ、一時期は信盛の指揮下に組み込まれていたほどです。 まさに織田家の大黒柱であり、信長の代理人として巨大な軍事力と行政権を握る、絶頂の地位にいたのです。

織田信長による突然の追放、佐久間信盛に向けた「19ヶ条の折檻状」の衝撃

しかし、1580年(天正8年)、信盛の運命は暗転します。 石山本願寺との10年にわたる長い戦いが終わった直後、信長から突然、隠居と追放を命じられたのです。

その際、信長が信盛に突きつけたのが、A4用紙数枚分にも及ぶと言われる長文のクレーム手紙、通称**「19ヶ条の折檻状」**です。 これは単なる叱責ではなく、信盛の人生と人格を根底から否定するような、凄まじい内容でした。

本願寺攻めの失敗と怠慢

折檻状の内容は、痛烈かつ具体的でした。

「お前は本願寺攻めという最重要作戦を5年も任されていたのに、何一つ手柄を立てず、ただ漫然と時を過ごしていたな」 「積極的に攻撃もせず、調略(裏切り工作)も仕掛けず、ただ城を囲んでいただけだ。そのせいで莫大な戦費と時間が無駄になった」 「与力(部下)たちの面倒も見ず、自分の利益ばかり考えて金を貯め込んでいる。ケチで卑しい」

信長は、信盛がかつての功績にあぐらをかき、「守り」に入って積極性を失い、既得権益を守ることばかりに腐心していることを、鋭く見抜いて厳しく批判しました。信長が求めていたのは「安定」ではなく、常に変化し結果を出し続ける「革新」だったのです。

「ハゲ(秀吉)を見習え」という屈辱

さらに信長は、手紙の中で後輩たちと比較して信盛を罵倒しました。

「丹羽長秀や柴田勝家、池田恒興たちは、少ない領地でも見事に実績を上げている」 「あのハゲネズミ(秀吉)や明智光秀を見てみろ。彼らは新参者だが、お前よりはるかに大活躍しているぞ。お前はあいつらに抜かれて悔しくないのか?」

筆頭家老としてのプライドをズタズタにする言葉です。 最後に信長は、「頭を丸めて高野山へ行け。それが嫌なら敵陣に突撃して討ち死にしろ」と迫りました。実質的な「死刑宣告」に近い、完全な絶縁状でした。

追放後の佐久間信盛の最期と歴史的意義

信長に逆らうことはできず、信盛は息子・信栄と共に高野山へと追放されました。 かつて7カ国を統括した筆頭家老が、一夜にして領地も財産も名誉も失い、ホームレス同然の身分に落とされたのです。

高野山での寂しい死

追放された信盛は、そのショックや高齢もあってか、わずか半年後の1582年1月、十津川(奈良県)の山奥で寂しく病死しました。 織田家のために人生の全てを捧げた男の、あまりにも悲しい最期でした。 皮肉なことに、信盛が死んだ数ヶ月後に「本能寺の変」が起き、信長もまたこの世を去ることになります。

信長政権の厳しさを象徴する事件

この事件は、他の家臣たちを震え上がらせました。 「あの佐久間様でさえ、成果が出せなければクビになるのか」 「次は自分の番かもしれない」

特に、信盛と同じく「方面軍司令官」として丹羽や近畿を担当していた明智光秀は、この事件を見て強烈なプレッシャーと恐怖を感じたと言われています。光秀もまた、真面目ゆえに成果に追われるタイプでした。 佐久間信盛の追放は、織田家の組織を引き締めると同時に、家臣たちの心に「信長への不信感と恐怖」という種を植え付け、やがてそれが本能寺の変という形で爆発する遠因になったとも考えられるのです。

まとめ:佐久間信盛は「変化」に対応できなかった

いかがでしたでしょうか。 佐久間信盛の生涯と追放劇をまとめます。

  1. 筆頭家老: 信長の父の代から仕え、「退き佐久間」として数々の武功を挙げたNo.1重臣だった。
  2. 折檻状: 成果主義の信長から「怠慢」「無能」と断罪され、過去の功績も否定されて追放された。
  3. 歴史の教訓: 過去の実績にあぐらをかき、守りに入ると、時代の変化(信長の革新性)についていけず淘汰される。

佐久間信盛は決して無能ではありませんでした。むしろ、優秀な調整役であり、織田家の拡大期には欠かせない人物でした。 しかし、信長が求める「常に成長し、リスクを恐れず結果を出し続けること」という過酷な要求に対し、年齢とともに応えられなくなっていたのかもしれません。 現代のビジネス社会にも通じる、組織と個人のあり方を深く考えさせられる人物です。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、出世していく秀吉たちとは対照的に、徐々に居場所を失っていく信盛の哀愁と、組織人の悲哀が描かれることでしょう。

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