戦国時代の武将の中で、これほどまでに「根性」と「不屈の魂(ガッツ)」を見せつけた男はいません。 その名は、佐々成政(さっさ なりまさ)。
織田信長の親衛隊(黒母衣衆)の筆頭として活躍し、北陸・越中(富山県)を治めた猛将です。 彼は、冬の北アルプスを徒歩で越えるという、現代の登山家でも命がけの「さらさら越え」を成功させた伝説の持ち主です。
「なぜそんな無茶をしたの?」 「秀吉とは仲が悪かったの?」 「前田利家とはライバルだったって本当?」
この記事では、信長への忠義を貫き、秀吉に最後まで抗い続けた男・佐々成政の激動の生涯と、その悲劇的な最期について、高校生にも分かりやすく、ドラマチックに徹底解説します。

佐々成政とは?信長に愛されたエリート武将
佐々成政は、尾張国(愛知県)の比良城主の家に生まれました。 若い頃から織田信長に仕え、その武勇と統率力で頭角を現します。兄たちが戦死した後、家督を継いで信長の馬廻(親衛隊)として活躍しました。
黒母衣衆(くろほろしゅう)の筆頭
信長には、エリート中のエリートを集めた特別な親衛隊がありました。 戦場で目立つ「母衣(ほろ)」という風船のような武具を背負うことを許された、「赤母衣衆(あかほろしゅう)」と「黒母衣衆(くろほろしゅう)」です。
赤の筆頭が、のちに加賀百万石を築く前田利家なら、黒の筆頭は佐々成政でした。 二人は年齢も近く、良きライバルであり、信長軍団の双璧として数々の戦場で競い合いました。 特に成政は鉄砲の扱いに長けており、「鉄砲の名手」としても知られています。長篠の戦いでは、鉄砲隊の指揮官の一人として武田騎馬隊を撃破する重要な役割を果たしました。 彼は単なる猪武者ではなく、最新兵器を使いこなす実務能力も兼ね備えていたのです。
越中(富山)の支配者へ
信長の北陸攻略に伴い、成政は柴田勝家の与力(サポート役)として、上杉謙信への備えとなる最前線・越中(富山県)を任されます。 彼は富山城を拠点に、一向一揆や上杉軍で荒れた越中を平定しました。
成政の功績は戦だけではありません。 越中は川の氾濫が多い土地でした。彼は自ら指揮を執り、暴れ川・常願寺川の治水工事を行いました。この時築かれた堤防は**「佐々堤(さっさづつみ)」**と呼ばれ、今でも富山の人々の暮らしを守っています。 「佐々さん」と親しまれるほど、彼は領民思いの熱い政治家でもあったのです。
佐々成政と豊臣秀吉の対立と「さらさら越え」の伝説
1582年、本能寺の変で信長が亡くなると、成政の運命は大きく変わります。 彼は織田家の後継者として、信長の次男・織田信雄を支持し、台頭する羽柴秀吉と対立する道を選びました。 「信長様の恩を忘れ、織田家を乗っ取ろうとする秀吉が許せない!」 その一本気な性格が、彼を修羅の道へと導きます。
前田利家との決別「末森城の戦い」
秀吉についた親友・前田利家と、信雄についた佐々成政。 かつて背中を預け合った同僚は、北陸の地で敵味方に分かれて戦うことになりました。
1584年、成政は利家の支城・末森城(石川県)を攻めます(末森城の戦い)。 成政軍は城をあと一歩のところまで追い詰めましたが、利家が背後から奇襲をかけるという大胆な作戦に出たため、挟み撃ちにされて敗北してしまいます。 この敗戦が、成政にとっては痛恨の極みとなりました。北陸での勢力図が、一気に前田有利へと傾いたのです。

伝説の雪山踏破「さらさら越え」
さらに追い打ちをかけるように、主君である織田信雄と徳川家康が、秀吉と勝手に和睦(仲直り)してしまいました。 孤立無援となった成政ですが、彼は諦めませんでした。 「家康殿に直接会って、もう一度秀吉と戦うよう説得するしかない! 俺の熱意を伝えれば、必ず分かってくれる!」
しかし、時は冬。北陸は深い雪に閉ざされ、安全な街道は敵(秀吉軍・前田軍)に完全に封鎖されています。 そこで成政が選んだルートは、なんと**「真冬の北アルプス(立山連峰・ザラ峠)」を直登することでした。 標高2000m〜3000m級の雪山を、厳冬期に徒歩で越える。 現代の装備でも遭難必至の自殺行為に近いルートを、成政は地元のガイドとわずかな手勢だけで、強靭な精神力と体力で踏破し、浜松の家康のもとへたどり着いたのです。 これが伝説の「さらさら越え」**です。
家康は成政の登場に驚愕しましたが、すでに大勢は決していました。「気持ちはわかるが、今は動けない」と断られてしまいます。 成政は失意の中、再び雪山を越えて富山へ戻りました。結果は出ませんでしたが、そのド根性は後世まで語り継がれることになります。
佐々成政、豊臣秀吉への降伏と悲劇の最期
家康の説得に失敗した成政は、翌1585年、秀吉自らが率いる10万の大軍に富山城を包囲されます。 成政の兵力はわずか数千。もはやこれまで。成政は剃髪(ていはつ)して秀吉に降伏しました。 「殺せ」と言う成政に対し、秀吉は「お前の武勇は惜しい」と助命し、御伽衆(おとぎしゅう=話し相手)として側近に加えました。
肥後(熊本)国主への抜擢と一揆
秀吉の側近として大人しくしていた成政に、ラストチャンスが巡ってきます。 九州征伐での功績を評価され、なんと肥後国(熊本県)一国を与えられたのです。 「名誉挽回のチャンスだ! ここで良い国を作れば、また大名として返り咲ける!」
しかし、これは秀吉の「罠」だったのかもしれません。肥後は独立心の強い豪族(国人)たちが割拠する、統治最難関の地でした。 秀吉は「急いで検地(測量)をするな。まずは3年かけて慎重にやれ」と厳命していました。 しかし、焦った成政は、成果を急ぐあまり検地を強行してしまいます。
これに反発した国人たちが一斉蜂起し、大規模な「肥後国人一揆」が起きてしまいました。成政は必死に戦いましたが、独力では鎮圧できず、秀吉に援軍を仰ぐ事態となります。
責任を取らされて切腹
一揆は加藤清正らによって鎮圧されましたが、秀吉は激怒しました。 「言いつけを守らず一揆を招いた罪は重い」 1588年、摂津の尼崎(兵庫県)にて、成政に切腹が命じられました。
「もはやこれまでか…」 戦国の世を不器用なまでに真っ直ぐに生きた猛将は、政治的な駆け引きの中でその生涯を閉じました。享年53歳(推定)。 彼が切腹した場所には、今も静かにお墓が残っています。

まとめ:佐々成政は「男の意地」を貫いた
いかがでしたでしょうか。 佐々成政の歴史をまとめます。
- 信長のエリート: 黒母衣衆筆頭として活躍し、鉄砲隊を指揮。越中では治水工事を行う名君だった。
- 不屈の闘志: 秀吉に対抗するため、命がけで真冬の北アルプスを越える「さらさら越え」の伝説を作った。
- 悲劇の最期: 焦りから肥後の統治に失敗し、秀吉の命令で切腹。政治力よりも武勇と意地で生きた人生だった。
彼は、秀吉のように要領よく立ち回ることはできませんでした。生き方としては「不器用」だったかもしれません。 しかし、どんなに不利な状況でも諦めず、信念のために道なき道を進んだその姿は、多くの人々の心を打ちます。富山県では今でも英雄として愛されています。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、秀吉・秀長兄弟の前に立ちはだかる「最強の頑固者」として、その熱く、そして哀しい生き様が描かれることでしょう。
