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豊臣秀吉はなぜ朝鮮出兵をした?文禄・慶長の役の理由と豊臣秀長の不在

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2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の物語におけるクライマックスにして、豊臣家最大の悲劇とも言える出来事。 それが、豊臣秀吉が晩年に行った**「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」**です。

日本国内を平定し、天下を統一して「戦のない世」を作ったはずの秀吉が、なぜわざわざ危険な海を越えて、外国(朝鮮半島や明=当時の中国)と戦う道を選んだのでしょうか? 現代の視点から見れば、それはあまりに無謀で、リスクに見合わない戦いに見えます。

「秀吉は晩年、権力に溺れてボケてしまっていたの?」 「家来たちは反対しなかったの? まともな判断ができる人はいなかったの?」 「もし、賢明な弟の秀長が生きていたら、この暴走を止められたんじゃない?」

この記事では、日本史における大きな謎の一つである「朝鮮出兵の理由」について、当時の武家社会の構造や国際情勢も踏まえた3つの有力な説を詳細に解説します。 そして、この泥沼の戦争が豊臣政権の内部をどのように破壊していったのか、もし兵站(へいたん)の天才・豊臣秀長が生きていれば歴史はどう変わっていたのかを、高校生にも分かりやすく、深く掘り下げて紐解いていきます。

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目次

豊臣秀吉はなぜ朝鮮出兵を行ったのか?主な3つの理由

秀吉が朝鮮出兵(当時は「唐入り(からいり)」と呼ばれました)を決断した理由は、単なる老人の思いつきや狂気ではありません。当時の武家社会が抱える構造的な問題や、秀吉個人の野望、そして東アジア情勢が複雑に絡み合っていました。 主な理由は以下の3つです。

豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った理由
  • 家臣に与える「恩賞(土地)」が枯渇したから
  • 明(中国)との貿易復活と東アジアの覇権
  • 織田信長を超えたいという「名誉欲」と愛児の死

1. 家臣に与える「恩賞(土地)」が枯渇したから

これが最も現実的、かつ切実な構造的理由です。 戦国大名の主従関係は、基本的に「御恩と奉公(ごおんとほうこう)」、つまり「土地」で結ばれています。 「命がけで働けば、新しい土地をあげるよ。石高を増やしてあげるよ」という約束があるからこそ、家臣たちは戦います。これが武家社会のエンジンの正体です。

しかし、秀吉は小田原征伐と奥州仕置によって、日本全国を統一してしまいました。 これは平和の訪れであると同時に、**「これ以上国内に、家臣に分け与える新しい土地がなくなってしまった」**ことを意味します。 家臣たちの「もっと出世したい!もっと広い領地が欲しい!」という尽きることのないエネルギーを国内で満たすことは、もはや不可能でした。もし恩賞が止まれば、家臣の不満は政権に向かいます。 彼らの不満を逸らし、さらなる成長と求心力を維持するためには、海外(朝鮮や明)の土地を切り取り、それを新しい恩賞として与えるしか道がなかったのです。 秀吉政権は「拡大し続けなければ崩壊する自転車操業」のような宿命を背負っていたとも言えます。

2. 明(中国)との貿易復活と東アジアの覇権

当時、世界の大国だった「明(みん=中国)」との貿易は、生糸や陶磁器などをもたらす莫大な利益を生むビジネスでした。 しかし、倭寇(わこう=海賊)の問題などで、日本と明の正式な貿易(勘合貿易)は長く途絶えていました。

秀吉は当初、朝鮮や琉球などを通じて「明と自由に貿易させろ(入貢せよ)」と交渉していましたが、中華思想(中国が世界の中心であり、周辺国は従うべきという考え)を持つ明は、日本の秀吉を対等な交渉相手とは認めませんでした。 そこで秀吉は、「言うことを聞かないなら、武力で明を征服し、貿易ルートそのものを支配してやる」と考えたのです。 秀吉は堺や博多の商人と結びつきが強く、経済感覚に優れた統治者でした。ポルトガルやスペインといった西洋列強の東アジア進出も意識しており、日本の安全保障と経済的利益のために、東アジアの貿易圏を自分の手でコントロールしたいという、巨大な構想を持っていた可能性があります。

3. 織田信長を超えたいという「名誉欲」と愛児の死

晩年の秀吉は、自分の功績を過信し、一種の万能感に支配されていたと言われています。 「百姓から天下人になった俺に、不可能なことはない。日本を統一したなら、次は中国(明)やインド(天竺)までも征服できるはずだ」

かつての主君・織田信長も、「唐入り」の構想を持っていたと言われています。秀吉にとって信長は永遠の目標であり、超えるべき壁でした。 「信長様ですら成し遂げられなかった海外進出を、この俺がやってみせる」という名誉欲です。

さらに、出兵の直前(1591年)に、溺愛していた最初の世継ぎ・**鶴松(つるまつ)**がわずか3歳で病死してしまいます。 この深い悲しみと喪失感が、秀吉の精神バランスを崩し、何かに没頭するように無謀な戦争計画へと駆り立てたとも言われています。

文禄・慶長の役とは?泥沼化した7年間の戦い

朝鮮出兵は、1592年から1598年までの足掛け7年にわたり、2回に分けて行われました。それは当初の計画とは裏腹に、泥沼の消耗戦となりました。

文禄の役(1592年):初期の圧勝と補給の崩壊

1回目の「文禄の役」では、16万もの大軍が海を渡りました。 先鋒を務めた加藤清正や小西行長といった猛将たちは、破竹の勢いで朝鮮半島を北上。当時の朝鮮は平和が長く続いており、戦争への備えが十分でなかったため、日本軍はわずか数ヶ月で首都・漢城(ソウル)や平壌(ピョンヤン)を占領し、今の中国国境付近まで達しました。

しかし、ここで深刻な問題が発生します。 「補給(兵站)」の崩壊です。 陸路で伸びきった補給線を、現地の義兵(ゲリラ)が攻撃。さらに海からは、朝鮮の英雄・**李舜臣(イ・スンシン)**率いる水軍(亀甲船など)が現れ、日本からの補給船団を次々と撃破し、制海権を奪いました。 加えて、明(中国)の大軍が援軍として到着すると戦況は一変。日本軍は寒さと飢え、疫病に苦しみ、撤退を余儀なくされます。戦いは膠着(こうちゃく)状態に陥り、講和交渉が始まりました。

欺瞞の講和と慶長の役(1597年)

この講和交渉は、日本側の小西行長と明側の沈惟敬(しんいけい)が、互いの主君(秀吉と明の皇帝)に嘘の報告をしてまとめるという、とんでもないものでした。 秀吉には「明が降伏した」と伝え、明の皇帝には「秀吉が降伏して家来になりたがっている」と伝えたのです。 嘘は当然バレます。明からの使者が持ってきた手紙が「秀吉を日本国王に封じる(=家来と認める)」という内容だと知った秀吉は激怒し、再び出兵を命じました。これが「慶長の役」です。

しかし、今回は最初から「土地の支配」ではなく「成敗(処罰)」が目的のような戦いでした。 兵士たちも「この戦いに何の意味があるんだ?」と士気が上がりません。 日本軍は、朝鮮南部に城を築いて守りを固めつつ、現地の抵抗勢力を徹底的に弾圧しました。その証として敵兵の耳や鼻を削いで日本に送る(耳塚)という、残酷で不毛な行いも命じられました。これは、首級(頭)を持ち帰ることが物理的に難しかったための措置ですが、戦場の凄惨さを物語っています。

そして1598年、秀吉が伏見城で病死したことで、日本軍はようやく極秘裏に撤退。この長く無益な戦争は、秀吉の死と共に幕を閉じました。

もし弟・豊臣秀長が生きていたら止められたか?

ここで歴史ファンの誰もが考える最大の「IF(もしも)」があります。 「もし、賢明な弟・豊臣秀長が生きていたら、この無謀な出兵を止められたのではないか?」

秀長の「兵站視点」なら不可能と分かったはず

秀長は、豊臣軍の「兵站(ロジスティクス)」と「財政」を一手に担っていた実務の最高責任者です。 彼は、20万もの大軍を海を越えて送り、現地で何年も維持することが、どれほどコストがかかり、物理的に困難であるかを、誰よりも「数字」で理解していたはずです。

「兄さん。地図を見てください。日本から朝鮮へ、さらに明へ。これだけの距離を、船で米を運び続けるには、船も水夫も圧倒的に足りません。九州までの輸送だけでも国内の米価は高騰し、一年もすれば財政が破綻します。勝っても負けても、豊臣家は倒産します」

秀長なら、感情論や精神論ではなく、誰も反論できない冷徹な**「数字とデータ」**を突きつけて、秀吉に現実を直視させ、計画を根本から修正、あるいは中止させることができた可能性は極めて高いです。

唯一、秀吉に「NO」と言える存在

晩年の秀吉の周りにいたのは、石田三成のような「有能だが若くて逆らえない官僚」か、加藤清正のような「命令には絶対服従の武将」ばかりでした。反対すれば、千利休のように殺されるかもしれないという恐怖政治が蔓延していました。

しかし、秀長だけは別格です。 百姓時代から苦楽を共にし、秀吉の成功を誰よりも支えてきた弟であり、秀吉が唯一、本音で話し、頭の上がらない存在でした。 秀長が生きていれば、暴走する兄を密室で叱りつけ、あるいは大政所(母)や北政所(ねね)と結託してでも、豊臣家が自滅するのを身体を張って防げたでしょう。

秀長は1591年に亡くなりました。朝鮮出兵が始まるのは、その翌年(1592年)です。 まさに、「最強のブレーキ役」を失った車が、崖に向かってアクセルを全開にしてしまったのが、朝鮮出兵だったのです。

まとめ:朝鮮出兵は豊臣政権崩壊の始まりだった

いかがでしたでしょうか。 豊臣秀吉の朝鮮出兵についてまとめます。

この戦争は、日本にとって(そして朝鮮・明にとっても)得るものは何もなく、失うものばかりの悲劇でした。

  1. 財政と国力の疲弊: 莫大な戦費と人命が失われ、豊臣家の力は大きく削がれました。多くの大名が借金を背負い、領民も重税に苦しみました。
  2. 家臣団の決定的な亀裂: 失敗の責任や作戦方針を巡り、過酷な現場で戦った「武断派(加藤清正ら)」と、後方で報告を担当した「文治派(石田三成ら)」の対立が修復不可能になりました。これが後の「関ヶ原の戦い」の直接的な原因となります。
  3. 徳川家康の温存と台頭: 秀吉の命令で渡海せず、名護屋城(佐賀県)で予備兵力として待機していた家康は、兵力を温存し、力を蓄えることができました。豊臣恩顧の大名が疲弊する一方で、家康だけが無傷で残ったのです。

これらは全て、豊臣家滅亡へのカウントダウンでした。 秀吉の晩年の孤独と暴走、そしてそれを止めるべき弟・秀長の不在。 大河ドラマ「豊臣兄弟」では、天下統一という栄光の後に待っていた、このあまりにも悲劇的な結末がどのように描かれるのか。二人の絆の行方と、残された人々の運命に注目です。

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