2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の序盤で、物語の最も重要な舞台となる場所。 それが、滋賀県長浜市、琵琶湖のほとりにある**「長浜城(ながはまじょう)」**です。
豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)は、「織田信長の草履取り」という最下層からスタートし、最終的に天下人へと駆け上がりました。 その長い長い出世階段の中で、彼が**「初めて自分の城を持った(一国一城の主になった)」**記念すべき場所こそが、この長浜城なのです。 いわば、豊臣秀吉という「ベンチャー企業」が、初めて自社ビルを持ったようなものです。ここから全てが加速しました。
「秀吉はここで具体的に何をしたの?」 「今の長浜城は当時のままなの?」
この記事では、秀吉のサクセスストーリーの原点である長浜城の歴史と、彼がここで行った「国づくりの基礎実験」、そして現在の見どころについて、高校生にも分かりやすく、深く掘り下げて徹底解説します。

なぜ豊臣秀吉は城持ち大名になれたのか?
秀吉が長浜城の主になったのは、1573年(天正元年)、37歳の時です。 きっかけは、信長を裏切り、長年苦しめ続けてきた義弟・浅井長政(あざい ながまさ)を滅ぼしたことでした。
浅井攻めの功績と「今浜」から「長浜」へ
秀吉は、難攻不落と言われた浅井氏の居城・小谷城(おだにじょう)攻めで、一番槍の手柄を立てるなど大活躍しました。その功績として、信長から浅井氏の旧領地(北近江)のほとんど(約12万石)を与えられたのです。
ここで秀吉のセンスが光ります。 彼は、浅井氏が使っていた山城の「小谷城」をそのまま使いませんでした。山城は守るには強いですが、政治や経済を行うには不便だからです。 秀吉は、山を降り、琵琶湖(びわこ)のほとりにある**「今浜(いまはま)」**という港町に、全く新しい城を築くことを決めました。
そして、主君・織田信長の名前から「長」の一字をもらって、地名を「今浜」から**「長浜(ながはま)」**へと改名したのです。 「新しい城と町の名前には、信長様の名前が入っています!」 これは、「一生、信長様についていきます!」という、秀吉らしい猛烈な忠誠心のアピールであり、同時に信長の威光を借りて領民を統治する高度な政治的パフォーマンスでもありました。
「木下」から「羽柴」へ
この時、秀吉はもう一つ大きな改名(イメージチェンジ)をしています。 それまでの「木下藤吉郎秀吉」から、織田家の重臣トップ2である丹羽長秀(にわ ながひで)と柴田勝家(しばた かついえ)の一字ずつをもらって、**「羽柴秀吉(はしば ひでよし)」**と名乗り始めました。
これは単なるゴマすりではありません。 新参者で身分の低い秀吉が、急速に出世することに対する古参武将たちの嫉妬や反感を和らげるため、「私は先輩方を尊敬していますよ」という姿勢を見せる必要があったのです。 長浜城は、秀吉が名実ともに織田家の「有力武将」として独り立ちし、世渡りの知恵を駆使し始めた場所なのです。
長浜城で発揮された「国づくり」の才能
秀吉は、ただ城を建てただけではありません。 ここで、のちの天下統一や大坂城築城につながる、政治や経済の壮大な実験を行いました。
琵琶湖の水運を活かした城下町
なぜ秀吉は、守りの堅い山城(小谷城)を捨てて、防御力の低い湖畔に城を築いたのでしょうか? 答えは**「経済(物流)」**を優先したからです。
琵琶湖は、京都や大阪へとつながる当時の「高速道路」のような重要な物流ルートでした。 秀吉は、城の中に船着場を作り、城の堀と琵琶湖を直結させました。これにより、軍事的な移動だけでなく、物資の輸送を直接コントロールできるようにしたのです。 これは、後の「水城」としての高松城や今治城の先駆けとも言える構造でした。
さらに、**「楽市楽座(らくいちらくざ)」**という政策を実施しました。 これは、税金を免除し、特権階級による商売の独占を禁止して、誰でも自由に商売ができるようにする政策です。 秀吉は、小谷城の城下町に住んでいた人々を長浜へ移住させ、さらに各地から商人を呼び寄せました。 「長浜に行けば儲かるぞ!」 その噂は広まり、長浜は寂れた漁村から、活気あふれる「商業都市」へと劇的に生まれ変わりました。この経済力が、後の秀吉の軍資金を生み出したのです。
人材の宝庫!石田三成や加藤清正との出会い
長浜城主時代は、秀吉が優秀な人材を次々と発掘・スカウトした時期でもあります。 のちに豊臣政権の頭脳となる石田三成との運命的な出会い「三献の茶」も、この長浜領内の観音寺での出来事です。
また、遠縁にあたる加藤清正や福島正則といった、のちの猛将たちも、少年時代にこの長浜城に呼び寄せられ、秀吉と妻のねねに我が子のように育てられました。 他にも、片桐且元や脇坂安治など、「賤ヶ岳の七本槍」として活躍する多くの若者たちが、この地で武術や学問を学びました。 長浜は、豊臣政権を支えるエリートたちを養成する「学校(虎の穴)」のような場所だったのです。ここでの絆が、後の豊臣家の結束を生みました。

留守を守った弟・豊臣秀長の存在
秀吉が城持ち大名になったとはいえ、織田信長の命令は絶対です。 秀吉はすぐに「中国攻め(岡山・兵庫方面)」の総大将に任命され、長年の間、長浜城を留守にすることが多くなりました。 その間、長浜城の留守を守り、領地を統治していたのは、弟の豊臣秀長でした。
秀長は、兄が連れてきた荒くれ者たちをまとめ上げ、城下町の整備や、領民同士の揉め事を裁く裁判などの実務を一手に引き受けました。 また、すぐ近くには織田家の筆頭家老・柴田勝家の領地(越前)があり、常にプレッシャーがかかる位置でしたが、秀長は外交的ならりくらりと上手く立ち回り、トラブルを防ぎました。 秀吉が安心して外で戦い、出世できたのは、秀長が長浜という「ホームベース」を完璧に守り、兵糧や武器を絶えず前線に送り続けていたからです。長浜時代の成功は、秀長の行政手腕の賜物でもありました。

その後の長浜城と現在
山内一豊と廃城、そして復興
秀吉が本能寺の変の後に拠点を大阪に移すと、長浜城には柴田勝家の甥・勝豊が入り、その後は「内助の功」で有名な**山内一豊(やまうち かずとよ)が城主となりました。一豊もまた、天正大地震で倒壊した城を修復するなど、この地を大切に治めました。 しかし、江戸時代に入ると「一国一城令」により長浜城は廃城(取り壊し)となり、その石垣や資材の多くは、皮肉にもライバルである井伊家の彦根城(ひこねじょう)**の築城に使われてしまいました(彦根城の天秤櫓などは長浜城の大手門を移築したものと言われています)。
現在の長浜城(長浜城歴史博物館)は、1983年に市民の熱意によって昭和の城として鉄筋コンクリートで再建されたものです。 内部は博物館になっており、秀吉ゆかりの品々が展示されています。最上階の展望台からは、かつて秀吉も眺めたであろう雄大な琵琶湖が一望でき、春には「日本さくら名所100選」に選ばれた美しい桜が城を埋め尽くします。
まとめ:長浜城は「天下人・秀吉」のスタート地点
いかがでしたでしょうか。 長浜城についてまとめます。
- 出世の証: 秀吉が初めて一国一城の主となり、「羽柴」に改名して独立した記念すべき場所。
- 経済重視の国づくり: 山城を捨て、琵琶湖の水運と楽市楽座を活かした「経済都市」のモデルを作った。
- 人材育成のゆりかご: 石田三成や加藤清正ら、のちの豊臣政権を支える人材がここで育った。
長浜城は、単なる地方の一拠点の城ではなく、秀吉の「政治」「経済」「人事」の才能が初めて開花し、天下統一への実験が行われた、まさに**「天下人の原点(スタートアップ)」**と言える場所です。
大河ドラマ「豊臣兄弟」では、若き日の秀吉と秀長が、この琵琶湖のほとりでどのように夢を語り合い、泥にまみれて国づくりに励んだのか。 希望と野心に満ちた二人の青春の日々が、きっと鮮やかに描かれることでしょう!
