2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」のクライマックス、それが小田原征伐(おだわらせいばつ)です。
この戦いは、単なる「秀吉の勝利」以上の、日本史における巨大な転換点としての意味を持っています。 1467年の応仁の乱から約100年以上続き、日本中を焦土に変え、幾多の英雄たちが夢見ては散っていった**「戦国時代」が、この戦いをもって完全に、そして不可逆的に終わった**からです。
相手は、関東地方(関八州)を100年・5代にわたって支配し続けてきた最強の戦国大名・北条氏(ほうじょうし)。 彼らの本拠地である小田原城は、かつて「軍神」上杉謙信や「甲斐の虎」武田信玄が大軍で攻め寄せても、指一本触れることができずに撤退させた、日本最大にして最強の「難攻不落(なんこうふらく)」の要塞です。
「なぜ、最強の城があっさり落ちたの?」 「秀吉はどうやって、戦わずして勝ったの?」 「この時、弟の秀長はどうしていたの?」
この記事では、秀吉の天下統一事業の総決算である「小田原征伐」について、秀吉が見せつけたチート級の戦略と、なぜ北条氏が滅亡しなければならなかったのかという理由を、高校生にも分かりやすく、ドラマチックに徹底解説します。

小田原征伐はなぜ起こったのか?「惣無事令」違反と北条氏の誤算
まずは、なぜ既に関白となっていた秀吉が、わざわざ大軍を率いて関東の北条氏を攻めることになったのか、その背景にある「新時代のルール」と「旧時代のプライド」の衝突を見ていきましょう。
天下人のルール「惣無事令」違反
この頃、秀吉はすでに「関白(かんぱく)」になり、天皇に代わって日本を治める統治者となっていました。 そこで彼が全国の大名に出した命令が**「惣無事令(そうぶじれい)」**です。 簡単に言うと、「大名同士の勝手なケンカ(私戦)は禁止。領土の境界線で揉め事があれば、武力ではなく、関白(秀吉)が裁判で決める」という、平和のための絶対ルールです。これに従わない者は「朝廷の敵(朝敵)」とみなされます。
しかし、関東の支配者である**北条氏政(ほうじょう うじまさ)・氏直(うじなお)**親子は、この新しいルールを甘く見ていました。彼らは「我々は100年前から関東の王だ。朝廷の権威など関係ない。成り上がりの秀吉に指図される覚えはない」という強烈なプライドを持っていたのです。 そして、北条氏の家臣が、真田氏(さなだし)の城である「名胡桃城(なぐるみじょう)」を武力で奪うという事件を起こしてしまいます。
これは単なる小競り合いではありませんでした。秀吉はこれを「天下人が定めた平和のルールへの明確な反逆」とみなし、「北条を討伐し、天下の法を示す!」と全国の大名に号令をかけたのです。これは北条氏を滅ぼすための、完璧な口実でした。秀吉は、北条氏がルールを破るのを待っていたのかもしれません。
北条氏の誤算「小田原城は落ちない」
北条氏政には絶対の自信がありました。 「小田原城は、城壁で囲まれた単なる城ではない。**総構え(そうがまえ)**と呼ばれる全長9kmにも及ぶ巨大な堀と土塁で、城下町ごとすっぽり囲い込んだ、世界最大級の要塞都市だ。謙信も信玄も落とせなかったこの城が、落ちるはずがない」
彼らの作戦は、伝統的な「籠城(ろうじょう)」でした。 「秀吉は大軍で来るだろうが、大軍であればあるほど食料(兵糧)が続かないはずだ。我々は城に豊富な食料を備蓄している。城に引きこもって守り抜き、相手が疲れて撤退するのを待てば我々の勝ちだ」 しかし、これは致命的な誤算でした。彼らは、秀吉という男が、謙信や信玄とは「持っているお金と兵力の桁」、そして「兵站(ロジスティクス)の概念」が根本的に違うことを理解していなかったのです。
小田原征伐:豊臣秀吉の戦略、戦う前に心を折る「圧倒的パフォーマンス」
1590年、秀吉は全国の大名(徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、長宗我部元親、宇喜多秀家など、オールスター軍団)を総動員しました。 陸路と海路から関東へ集結したその数は、総勢約22万。日本の歴史上、空前絶後の大軍団が小田原城を完全に包囲しました。
秀吉の戦い方は、「力攻め」で城壁を登るような古い戦法ではありませんでした。相手の「戦意」そのものを根底から破壊する、壮大な「見せつけ(デモンストレーション)」だったのです。
1. 終わらない兵糧攻めと「余裕」の演出
秀吉は、城の周りを何重もの陣地で完全に囲み、蟻一匹通さない封鎖を行いました(兵糧攻め)。 北条側は「そのうち秀吉軍の兵糧が尽きる」と期待しましたが、現実は逆でした。 秀吉は、弟・秀長が構築した兵站システムを使い、日本中の米を船で大量輸送させました。小田原の海は、秀吉軍の輸送船で埋め尽くされ、むしろ包囲している側の方が食料が有り余っているという異常事態を作り出しました。
さらに、秀吉は包囲している自分の陣地に、妻の淀殿(茶々)や千利休を大阪から呼び寄せました。そして、連日のように茶会や能の鑑賞会、酒宴を開いて見せたのです。 城の中から、楽しそうな音楽や笑い声が聞こえてくる秀吉軍の様子を見せつけられた北条軍の兵士たちは、どう思ったでしょうか? 「あいつら、戦いに来たんじゃない。遊びに来たんだ」 「俺たちは飢えに震えているのに、奴らは余裕だ。これでは勝てるわけがない」 恐怖よりも深い、絶望が城内を覆いました。秀吉は「戦争」を「祭り」に変えてしまったのです。
2. 伝説の「石垣山一夜城」
極め付けが、戦史に残る**「石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)」**です。 秀吉は、小田原城を見下ろす笠懸山(かさかけやま)の山頂に、密かに本格的な総石垣の城を築いていました。関東では珍しい石垣造りの城を、約80日間かけて、木々に隠しながら突貫工事で作らせたのです。 そして完成と同時に、邪魔な木を一斉に切り倒しました。
ある朝、北条氏政が目を覚ますと、昨日までただの森だった山の上に、突如として白く輝く巨大な城が出現していました。 「な、なんだあれは!? 昨日はなかったはずだ! 秀吉は天狗か魔法使いか!?」 これは物理的な城の威力以上に、心理的な大打撃を与えました。「神業を使う相手には勝てない」「我々の動きは全て見下ろされている」と、北条軍の幹部たちの戦う気力を完全にへし折ったのです。これが秀吉得意の「ハッタリ」と「演出」の極致でした。
この時、弟・豊臣秀長は?
実はこの小田原征伐に、秀吉の片腕であり、これまで全ての遠征で実質的な総大将を務めてきた弟・豊臣秀長は参加していません。 彼はこの時、長年の過労がたたり、大和郡山城で重い病に伏せっていました(翌1591年に死去)。
しかし、秀長がいないからといって、彼の影響力がなかったわけではありません。 22万もの大軍を、数ヶ月にわたって関東の地で維持し続けることができたのは、秀長が長年かけて作り上げた**「兵站(へいたん=補給)システム」と、彼が瀬戸内海の海賊衆を組織化して整備した「水軍(海運ルート)」**があったからこそです。 秀吉が小田原で余裕の宴会を開けたのも、秀長が後方から絶え間なく物資を送り続けていたからです。秀長は病床から、兄の最後の晴れ舞台を、その命を削って支えていたのです。

小田原征伐の結末:北条氏の滅亡と天下統一の完成
3ヶ月に及ぶ籠城の末、小田原城内では「戦うべきか、降伏すべきか」の議論が延々と続き、結論が出ない状態に陥っていました。これが有名なことわざ**「小田原評定(おだわらひょうじょう=いつまでも結論が出ない会議)」**の語源です。 しかし、支城が次々と落とされ、頼みの綱だった伊達政宗も秀吉に降ったことで、ついに決着の時が来ます。
特に、天才軍師・黒田官兵衛(くろだ かんべえ)が単身で城に乗り込み、北条氏政・氏直親子に対して「命を粗末にするな、家を存続させるために決断せよ」と説得したことが決定打となりました。
北条氏の降伏と切腹
1590年7月、北条氏はついに開城・降伏。 当主の氏直は徳川家康の娘婿だったこともあり助命され、高野山へ追放となりましたが、戦争責任者である父・氏政らは切腹を命じられました。 これにより、100年続いた関東の覇者・北条氏は戦国大名として滅亡しました。
家康の関東移封と「江戸」の始まり
この戦いの後、秀吉は徳川家康に対して「北条氏の旧領地(関八州)を与える代わりに、今の領地(三河など)を差し出せ」と命じます。 これは実質的な「左遷」でした。住み慣れた土地を離れ、田舎だった関東へ行けという命令です。 しかし家康はこれを受け入れ、居城を小田原ではなく、当時は湿地帯だった**「江戸」**に定めました。これが、のちの江戸幕府、そして現在の東京の繁栄の始まりとなるのです。
伊達政宗の臣従と「奥州仕置」
小田原城が落ちる直前、最後まで態度を保留していた東北の独眼竜・**伊達政宗(だて まさむね)**も、白装束(死に装束)を着て秀吉のもとに参上し、命がけのパフォーマンスで臣従を誓いました。 これにより、東北地方(奥州)も秀吉の支配下に入り(奥州仕置)、日本列島の北から南まで、全てが豊臣秀吉の手に統一されました。

小田原征伐まとめ:戦国時代の終わりと平和の始まり
いかがでしたでしょうか。 小田原征伐についてまとめます。
この戦いは、激しい殺し合いというよりは、秀吉が「もはや私に逆らうことは無意味だ」と、その圧倒的な国力と財力を日本中に見せつけるための、壮大な**「デモンストレーション」**でした。
- ルールの徹底: 天下人の法「惣無事令」に逆らえば、どんな名門でも滅ぼされることを示した。
- 圧倒的物量と演出: 22万の兵、兵糧攻め、一夜城で、戦う前に相手の心を折った。
- 全国統一: 北条氏の滅亡と東北勢の臣従で、日本国内から「敵」がいなくなった。
ここに、長い戦国の世は終わりを告げました。 しかし、この栄光の直後に、政権の要であった弟・秀長が亡くなり、利休の切腹、朝鮮出兵と、豊臣政権は「平和な時代の統治」に失敗し、急速に崩壊へと向かうことになります。
大河ドラマ「豊臣兄弟」では、天下統一の頂点に立った瞬間の秀吉の栄光と、それを病床から静かに見届ける秀長の姿が、物語のクライマックスの一つとして、美しくも切なく描かれることでしょう。
