2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」のもう一人の主人公、豊臣秀長(とよとみ ひでなが)。
彼は「兵站(補給)の天才」や、兄・秀吉の暴走を止める「調整役(バランサー)」として知られていますが、実は**「戦(いくさ)の天才」**でもあったことをご存知ですか?
「えっ、秀長って裏方じゃないの?」 「戦場で指揮を執っているイメージがない…」 そう思う方も多いかもしれません。歴史の教科書やこれまでのドラマでは、派手な秀吉や軍師・黒田官兵衛の影に隠れがちだったからです。
しかし、事実は異なります。 秀吉が天下統一を果たすための最大の山場であり、最も困難な遠征であった**「四国征伐」と「九州征伐」。 この巨大プロジェクトで、10万〜20万という空前絶後の大軍を率いて総大将**を務め、屈強な敵を次々と降伏させたのは、兄の秀吉ではなく、弟の秀長だったのです。
この記事では、秀長が総大将として活躍した二つの大遠征について、その知られざる武功と、単に敵を倒すだけでなく、心を折って従わせる「神対応」な戦後処理について、詳細に解説します。

なぜ豊臣秀長が「四国・九州征伐の総大将」だったのか?
まず、なぜ天下人である兄の秀吉ではなく、弟の秀長が総大将という大役を務めたのでしょうか? そこには、豊臣政権ならではの切実な事情と、秀長への絶対的な信頼がありました。
豊臣秀吉は「関白」として政治に専念
この頃(1585年以降)、秀吉は朝廷から「関白(かんぱく)」というトップの地位を与えられていました。 関白は天皇を補佐し、京都で政治を行うのが仕事です。おいそれと長期間京都を空け、地方の戦場へ出向くわけにはいきません。もし留守中に京都で政変が起きれば、元も子もないからです。
そこで、自分の分身として最も信頼でき、かつ自分と同じレベルで軍を動かせる唯一の存在である弟・秀長に、軍事指揮権(軍配)を預けたのです。 秀長は、ただの「弟」ではありません。黒田官兵衛、蜂須賀小六、仙石秀久、そして毛利家の小早川隆景といった、一癖も二癖もある猛将たちを束ね上げる、豊臣軍の**「最高司令官」**としての才能を持っていたのです。

四国征伐(1585年):長宗我部元親を降す
最初のターゲットは、四国の覇者・**長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)**です。 元親は「鳥なき島の蝙蝠(こうもり)」と自嘲しながらも、「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる半農半兵の強力な地侍集団を率い、四国全土をほぼ統一した猛将でした。
3方向からの圧倒的包囲網と心理戦
秀長は、総勢10万を超える大軍を3つのルートから同時に四国に上陸させる作戦を立案・実行しました。
- 秀長(総大将): 淡路島から阿波(徳島)へ(主力を指揮、約6万)
- 羽柴秀次・宇喜多秀家: 備前(岡山)から讃岐(香川)へ(約2万3千)
- 小早川隆景(毛利軍): 伊予(愛媛)へ(約3万)
長宗我部元親は、四国の険しい山岳地形を利してゲリラ戦に持ち込み、持久戦を狙っていました。 しかし、秀長軍の戦略はそれを許しませんでした。圧倒的な兵数で主要な城を同時に包囲し、連携を分断したのです。 特に秀長が指揮した阿波戦線では、要衝である「一宮城」を水攻めにするなど、徹底的な攻撃を加えました。
「これ以上戦っても勝ち目はない。民が苦しむだけだ」 秀長は、力でねじ伏せることもできましたが、あえて使者を送り、粘り強く降伏を勧めました。元親の「戦意」そのものをくじく心理戦を展開したのです。 結果、元親はついに降参を決断します。
豊臣秀長の「神対応」な戦後処理
驚くべきは、戦いの後です。 戦国の常識では、最後まで抵抗した敵将は切腹、領地は没収されても文句は言えません。 しかし秀長は、元親に対し**「土佐(高知)一国」の支配を認め、命も助ける**という寛大な処置をとりました。
「元親殿の面目を潰してはいけない。彼ほどの男、殺すよりも生かして豊臣のために働かせた方が得策だ」 この秀長の冷徹かつ合理的な判断は的中します。 この寛大な処置に元親は感激し、以後は豊臣政権の忠実な家臣となり、後の九州征伐や小田原征伐でも大活躍することになるのです。秀長は「敵を滅ぼす」のではなく「味方にする」戦い方を知っていたのです。
九州征伐(1587年):島津義久を降す
次は、戦国最強の戦闘民族とも言われる島津氏(しまづし)が支配する九州です。 相手は九州の覇者・**島津義久(しまづ よしひさ)**と、鬼島津の異名を持つ弟・義弘たちです。
20万の大軍と日向ルートの激戦
この戦いでは、秀吉自身も出馬しましたが、軍は二手に分かれました。 秀吉本隊は比較的平坦な西ルート(肥後・熊本側)を進みましたが、実質的な主力部隊(日向方面軍)を率いて、島津の主力が待ち構える東ルート(日向・宮崎側)を進んだのは秀長でした。 その数、なんと10万以上(全体では20万以上)。
秀長が担当した日向ルートは、険しい山道が続き、大軍の移動には不向きな難所でした。 ここで秀長の「兵站(ロジスティクス)」能力が爆発します。 彼は山道を通る陸路の補給に頼らず、瀬戸内海の水軍を総動員して海路から食料や武器をピストン輸送させ、前線に物資を山積みにして見せました。 これにより、大軍を飢えさせることなく、猛スピードで進軍させることに成功したのです。
根白坂の戦い:最強・島津軍を正面から粉砕
そして迎えた最大の決戦、「根白坂(ねじろざか)の戦い」。 追い詰められた島津軍は、得意の夜襲と「釣り野伏せ(囮を使って敵を誘い込み、伏兵で囲む戦法)」で一発逆転を狙い、秀長の本陣に突撃してきました。
しかし、秀長はこれを完全に読んでいました。 彼は陣地の周りに厳重な柵と空堀を巡らせ、無数の鉄砲隊を配置して待ち構えていたのです。 「慌てるな。引きつけて撃て」 島津軍の決死の突撃は、秀長軍の組織的な防御と圧倒的な火力の前に粉砕されました。 「戦上手」と言われた島津軍に、小細工なしの正面衝突で完全勝利したのです。これは、秀長という武将の指揮能力の高さを示す決定的な一戦でした。
ここでも光る「調整力」と政治判断
敗北を悟った島津義久は、頭を丸めて降伏を申し出ます。 ここでも秀長は、島津家を滅ぼさず、本領(薩摩・大隅)を安堵するという異例の温情を見せました。
これは単なる優しさではありません。 九州という遠くて統治が難しい土地、しかも独特の文化と強力な兵を持つ薩摩を安定させるためには、現地のカリスマである島津氏を利用した方が、統治コストが安く済むという、秀長の高度な政治判断でした。 結果、島津氏も豊臣政権に組み込まれ、天下統一は決定的なものとなりました。

四国・九州征伐まとめ:秀長は「戦」も「政治」も超一流だった
いかがでしたでしょうか。 四国・九州征伐での秀長の功績をまとめます。
- 総大将としての統率力: 10万以上の大軍、しかも毛利や宇喜多といった他家の軍勢も含めた連合軍を、トラブルなく完璧に指揮したリーダーシップ。
- 戦術眼と兵站力: 長宗我部や島津といった強敵に対し、兵站で優位に立ち、戦場でも正面から勝利する軍事的な強さ。
- 戦後処理の巧みさ: 敗者を許し、メンツを立てて味方に変えることで、戦後の地域を安定させる政治的な視野の広さ。
豊臣秀長は、単なる「兄のサポート役」や「いい人」ではありませんでした。 彼自身が、信長や家康にも匹敵する日本トップクラスの**「武将」であり、「政治家」**だったのです。
もし彼が生きていれば、その後の朝鮮出兵の無謀な作戦を止め、関ヶ原の戦いのような豊臣家分裂の悲劇も、その圧倒的な実力と人望で防いでいたかもしれません。 大河ドラマ「豊臣兄弟」では、裏方としてだけでなく、戦場で采配を振るう「強くてカッコいい秀長」の姿に、ぜひ注目してください!
