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柴田勝家と豊臣秀吉の関係|織田家の後継者を巡る対立と賤ヶ岳の戦い

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2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長と兄・秀吉にとって、最も巨大で、かつ尊敬すべき壁として立ちはだかる人物。 それが、織田家の筆頭家老、柴田勝家(しばた かついえ)です。

「鬼柴田(おにしばた)」の異名を持つ猛将で、織田信長からも最も信頼された重臣中の重臣でした。 しかし、信長の死後、彼はかつての部下である秀吉と激しく対立し、滅ぼされる運命をたどります。

「なぜ二人は戦うことになったの?」 「昔から仲が悪かったって本当?」 「そもそも勝家ってどんな人生を送った人?」

この記事では、上司と部下であり、最大のライバルでもあった勝家と秀吉の複雑な関係性と、二人が激突した「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」の真相について、高校生にも分かりやすく、ドラマチックに徹底解説します。

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目次

柴田勝家とは?「織田家で一番エライ家来」の波乱万丈な生涯

まずは、柴田勝家がどのような人物だったのか、その意外な過去から見ていきましょう。 彼は最初から信長の忠実な部下だったわけではありません。実は一度、信長を殺そうと反乱を起こしたこともあるのです。

信長の弟を支持し、一度は信長に敗北

勝家は、信長の父・信秀の時代から織田家に仕える古参の武将です。 しかし、信長が家督を継いだ当初、勝家は「うつけ者(バカ)」と呼ばれ奇行の目立つ信長を見限り、品行方正で優秀に見えた信長の弟・**織田信行(信勝)**を次の当主にしようと画策しました。 「織田家の未来のためには、信長様ではダメだ」という、彼なりの正義感からの行動でした。

1556年、勝家は信行を担いで信長に反旗を翻し、「稲生(いのう)の戦い」で激突します。 しかし、結果は信長の圧勝。勝家は自ら指揮を執りながらも敗北しました。 普通なら即座に処刑されるところですが、信長は勝家の武勇と実直さを惜しんで許しました。この予想外の寛大な処置に勝家は心底感激し、以降は「この御方のために命を捨てよう」と、信長に絶対の忠誠を誓う「鬼柴田」へと生まれ変わったのです。 後に弟・信行が再度謀反を企てた際は、勝家自らが「信行様が謀反を計画しております」と信長に密告し、信行の粛清に協力したほど、その忠誠心は本物でした。

「瓶(かめ)割り柴田」の伝説

勝家の武勇と覚悟を象徴する有名なエピソードがあります。 近江(滋賀県)の六角氏との戦いで、勝家が守る長光寺城が敵の大軍に包囲され、水の手(水源)を断たれて絶体絶命のピンチに陥った時のことです。

城内の水が残りわずかとなり、兵士たちが渇きと絶望で弱気になる中、勝家は城内の水瓶(みずがめ)を全て庭に並べさせました。 そして、残った貴重な水を全員に思う存分飲ませた後、空になった水瓶を、なんと槍で次々と叩き割ってしまったのです。

「見ろ! もはや水はない! 帰る場所もない! ここで座して死ぬか、敵を倒して生き残るか、二つに一つだ! かかれぇ!」 この「背水の陣」とも言える凄まじい覚悟に兵士たちは奮い立ち、城から打って出て、数で勝る敵を蹴散らして勝利しました。 この逸話から、彼は「瓶割り柴田」という異名でも呼ばれ、その勇名は全国に轟きました。

北陸方面軍司令官としての苦闘

信長が天下統一を進める中で、勝家は最も困難な戦線である北陸地方(越前・加賀・能登・越中)の攻略を任されました。 相手は、強大な勢力を持つ「一向一揆(仏教徒の武装集団)」や、「軍神」上杉謙信です。特に一向一揆は死を恐れずに突撃してくる厄介な敵でした。

勝家は北ノ庄城(福井市)を拠点に、前田利家や佐々成政らを従え、粘り強い戦いで北陸を平定していきました。 雪深く厳しい環境の中で、強敵を抑え込み続けた勝家は、まさに織田軍団の屋台骨を支えるNo.1の功労者だったのです。

柴田勝家と豊臣秀吉の関係:水と油のライバル

そんな歴戦の猛者である勝家と、新参者の秀吉。 同じ織田家臣でありながら、二人の性格ややり方は正反対でした。

秀吉にとっては「雲の上の上司」

秀吉がまだ「木下藤吉郎」という下っ端だった頃、勝家はすでに家老(重役)でした。 秀吉が「羽柴」という名字を名乗った際、先輩である「丹長秀(にわ ながひで)」と「田勝家」から一文字ずつもらったという話は有名です。これは秀吉なりの処世術であり、ゴマすりでもありました。 つまり、秀吉にとって勝家は、憧れであり、目標であり、絶対に逆らえない「雲の上の上司」だったのです。

武力の勝家、知略の秀吉

勝家は、正々堂々と戦うことを好む「昔ながらの武士」でした。武勇と忠義、そして面目を何よりも重んじます。 一方、秀吉は、調略(裏切り工作)や経済封鎖など、頭を使って最小限の犠牲で勝つことを好む「新しいタイプの武士」でした。

勝家から見れば、百姓上がりでチャラチャラと要領よく立ち回る秀吉は、「戦の作法も知らぬ、軽薄な成り上がり者」に見えたことでしょう。 実際、上杉謙信との戦い(手取川の戦い)の直前、作戦会議で二人は激しく対立しました。意見を聞き入れられなかった秀吉は、なんと勝家の許可なく勝手に戦線を離脱して帰ってしまったのです(職場放棄事件)。 これに勝家は激怒し、信長も秀吉を叱責しましたが、二人の仲はここで決定的になりました。彼らは生理的に「水と油」だったのです。

織田信長の死と「清洲会議」での逆転

1582年、本能寺の変で信長が亡くなると、二人の立場は劇的に逆転します。

後継者争いの勃発

織田家の次のリーダーを決める「清洲会議(きよすかいぎ)」が開かれました。 筆頭家老の勝家は、信長の三男で、自分とも親しい信孝(のぶたか)を推薦しました。 しかし、明智光秀を討った最大の実績を持つ秀吉は、信長の嫡孫(ちゃくそん)・三法師(さんぼうし)を推薦しました。まだ幼児である三法師を抱きかかえ、秀吉は涙ながらに「信長様の直系こそが正統だ」と訴えます。

丹羽長秀や池田恒興といった他の重臣たちも、勢いのある秀吉に味方し、会議は秀吉のペースで進みました。 「サルごときに、織田家を乗っ取られてたまるか!」 プライドを傷つけられた勝家は、秀吉への対抗心を燃え上がらせます。

お市の方との結婚

秀吉に対抗するため、勝家は信長の妹・お市の方(おいちのかた)と結婚しました。 お市の方は、かつて浅井長政の妻でしたが、秀吉に攻められて夫を失っています。「秀吉憎し」という共通の思いが、年の差のある二人を結びつけたのです。 勝家は「信長の義理の弟」という立場を手に入れ、北陸の雪解けを待って秀吉との決戦に備えました。

最終決戦「賤ヶ岳の戦い」と柴田勝家の最期

1583年、ついに両者は「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で激突します。 雪国である北陸を拠点とする勝家は、春を待って進軍しましたが、秀吉のスピードと準備力には敵いませんでした。

敗因は「時代の変化」についていけなかったこと

勝家は勇猛でしたが、戦術が古かったとも言われます。 一方の秀吉は、弟・秀長の鉄壁の守りと、「美濃大返し」と呼ばれる神速の行軍で勝家軍を翻弄しました。秀吉軍の機動力は、勝家の常識を遥かに超えていました。 さらに、勝家の部下であり親戚でもあった前田利家(まえだ としいえ)が、秀吉との友情と勝家への義理の板挟みになり、苦悩の末に戦場から離脱したことで、勝負は決まりました。 人望や政治力においても、新しいリーダーである秀吉が勝家を上回っていたのです。

北ノ庄城での壮絶な最期

敗れた勝家は、居城の北ノ庄城(福井県)に火を放ち、お市の方と共に自害しました。 最期の夜、勝家は生き残った家臣たちを集めて酒宴を開き、「わしが死んだら、お前たちは秀吉に仕えて生き延びろ」と語りかけました。 そして、燃え盛る天守閣で、腹を十文字に切り裂いて果てたといいます。 「わしの死に様をよく見ておけ! 後代まで語り継げ!」 最後まで武士としての誇りを貫いた、見事な最期でした。享年62歳。

まとめ:古い時代の象徴として散った柴田勝家

いかがでしたでしょうか。 柴田勝家と秀吉の関係をまとめます。

  1. 波乱の生涯: 信長に一度背くも許され、「瓶割り柴田」として織田軍最強の武将となった忠義の男。
  2. 上司と部下: 最初は勝家が圧倒的に格上だったが、性格や戦術が合わず、信長死後に後継者争いで激突した。
  3. 世代交代: 武勇一点張りの勝家は、総合力(政治・経済・スピード)で勝る秀吉に敗れ、時代の敗者となった。

柴田勝家は、決して無能な人物ではありませんでした。むしろ、戦国時代を代表する立派な武将であり、領民からも慕われた名君でした。 しかし、時代が求めていたのは、勝家のような「古き良き武士の強さ」ではなく、秀吉のような「新しいシステムを作る賢さ」だったのです。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、主人公たちの前に立ちはだかる巨大な壁として、そして散りゆく侍の美学を見せる象徴として、勝家の生き様が熱く描かれることでしょう。

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